第1章


 まったくの不意打ちだった。予感も予兆も予告もなくいきなりこの状況だ。
 それはあのクリスマス直前に長門が作り出した世界。ハルヒは光陽園高校に通っていて、朝比奈さんが未来人じゃなく、長門は対人類ヒューマノイドインターフェースなんてモノではなくてただの内気な文芸部員で、古泉には超能力が無い。ハルヒがSOS団を作ることはなく、俺の周りには非常識な日常など存在しない世界。
 どうなっているんだ? あの世界は、三年前の長門が作った修正プログラム、そして俺達の時間遡行で修正されたんじゃなかったのか?
 目の前のハルヒは俺の放った間抜けな質問に眉を吊り上げていた。
「何ふざけてるのよ!」
「ふざけてない! 確認するが、今このパソコンが誰も触っていないのに勝手に起動して、なにやらメッセージを表示していた。それであってるな?」
「見た通りじゃない。何でそんなこと聞くのよ」
 苛立たしげに胸の前で腕を組み、口を尖らせて俺を睨むハルヒの髪はポニーテールにしても腰に届程長い。
 つまり状況を整理するとだ、今俺が居るのは、ちょうど長門の緊急脱出プログラムが発動した直後ってことらしい。はっきり言おう。訳がわからん。俺はあの時、長門の残した緊急脱出プログラムによって三年前の長門と未来の朝比奈さんの助けを求め、問題の一二月十八日に行き、結局そこで俺は朝倉に刺されたわけだが、その後もう一度その時間に戻り世界を元に戻すのに成功したはずだ。その証拠にそれから俺はちゃんと元の世界の生活を続けていたのだ。
 緊急脱出プログラムが発動した直後といったら長門が世界を改変してから三日後だが、修復が成功してそれまでの三日間が存在しなくなった以上、更にその後など存在しようもない筈なのだ。なのに目の前にはポニーテールのハルヒが居る。
 そして長門が……。いかん、あの長門を見ているとどうにもまともな思考が出来なくなる。
 とりあえず俺は目の前にいるハルヒについて思いを巡らせた。
 こいつは俺のよく知っているハルヒとは違う。髪型の週代わりを指摘された翌日ばっさり切ってしまったのが元の世界のハルヒだが、このハルヒはそれを経験してないから髪が長いのだ。いや一番大きな違いはこのハルヒが世界の運命を左右するような唐変木な能力を持っていないって点だろう。
 あのとき、このハルヒを見つけた時、こいつには元の世界の長門や朝比奈さんや古泉が持つぶっ飛んだ設定について話してあった。しかも「そっちの方が面白い」という理由でこいつは俺のした話を信じたんだ。それについては俺がジョン・スミスを名乗ったって事も大きいが。
 だから、今から話す俺の話も信じてくれるだろう。そう思ったから俺は次のセリフを放った。
「それはだな、俺が、この時間の人間じゃないからだ」
 古泉と朝比奈さんは「何だこいつ」みたいな顔をして俺を見た。そして長門はちょいと驚いた顔をしたが、ハルヒだけは次の言葉を促すように目を見開いて俺を見つめていた。
 まったく、立場が逆じゃねえか。常識人の俺があいつらみたいに、世間常識からかけ離れたイカレ話をすることになるとはね。俺が話をする気になったのはハルヒの表情を見たからってのもあるが、状況を整理するためにも、ここまでに俺が何をしてきたかを口にして思い出す必要があったのだ。
「どういうこと?」
 ハルヒは海外旅行から帰った親戚がお土産を出してくるのを待つ子供みたいに表情を輝かせた。気持ちは判るさ。いま念願の不思議な出来事が目の前にあるんだ。
「何処から話そうか……」
 俺はまず、今さっきの瞬間、俺と入れ替わりに消えた俺が行った先の話、そう、再び3年前の七夕へ行って朝比奈さん(大)とその時代の長門に助けを求め、変わってしまった世界を元に戻すべく、改変直前まで戻ったこと、そしてその時完結しなかった修復を完了するために再びその時に戻りそこで世界の修復は完了したという話をした。そして更にばらくして何故か突然また修復前のここに戻ってしまったことも。細かく話すと長くなるのでダイジェストでな。ただ、ここの長門にその話をするのは辛いので世界を改変した張本人は『ある人物』とした。そしておまけで修復された世界でのここの三人がどういうやつだったかも教えてやった。
 神妙に俺の話を聞いていたハルヒだが、説明が一通り終わり、俺が話はここまでだと宣言する頃には、その親戚の土産が空港でも売っていてつい最近食べたことのあるマカデミアナッツチョコレートだったみたいに不愉快そうに口を尖らせていた。
 まあハルヒだったら原住民が呪いの儀式で使うお面(非売品・呪い効果あり)くらいを持ってこないと喜ばないだろうけどな。おっと話が逸れた。
 つまるところ話がお気に召さないってことだ。やはり、話が荒唐無稽すぎたのか? まあ俺だったらこんな話する奴がいたらのそいつの正気を疑うけどな。
 しかし困ったぞ。ここでは結局俺は誇大妄想の電波人間としか見てもらえないのか? せめて此処にいる人にだけはそう思われたくなかった。それが無理ならせめてハルヒだけにでも。
 だが、それはちょいと違っていた。
「冗談じゃないわ!」
「なんだ?」
 ハルヒは吊りあがった眉を更に吊りあがらせて言った。
「じゃあなに? あたしの記憶は、人生は改竄されてるっていうの?」
 どうやらハルヒは世間の常識を軽く成層圏まで飛び越したような俺の話を信じた上で更に文句を言っているらしい。俺の話が成層圏ならハルヒの頭は月の軌道か?
 喩えるならば、そのお土産は確かに呪いのお面だったが、その効果が自分に及んだのが気に食わなかったってことだ。なんつう喩えだ。
「そんな個人的な範囲じゃなくて宇宙規模で世界が変わってるって話だよ。なんだっけ情報なんちゃら思念体とかいう長門の親玉も無くなってるって言ってたしな」
 そして俺はそれを修復をした。いや、俺一人でしたわけじゃない。俺は何の能力も無い平凡な一高校生だから長門と朝比奈さんと協力して、というのが正しい。
「ちょっとジョン、じゃあつまりあんたは、今のこの世界は狂っていて、それを無かったことにしたってことよね? 宇宙人の長門有希と未来人の朝比奈みくると」
 まあ、そういうことになる。しかも最後の一手を実行したのはつい最近のことだ。あくまで俺の感覚では、と但し書きが付くが。
 実はアレを経験してから割と伸ばし伸ばしになっていたんだが、あの直後に大小のイベントを立て続けにこなすハメになり、一刻も早く実行しなければならないと実感した俺はその実感する直接の要因となったSOS団の冬季合宿から帰ってすぐ、朝比奈さんと長門を連れて問題の日に向かったのだ。もちろん首尾よく世界の修復には成功した。まあ直接修復を行ったのは長門だが。
「ちょっと待ってくれませんか」
 古泉がちょっとまともな顔をして口を挟んできた。なんだよ。
「君は、世界の修復の決定打を実行したと言いましたね?」
「ああ、俺があそこで過去に戻ることは既定事項だったんだ」
「なのに、修復前の世界がここにある。その謎を論じる前に一つ。その修復を行った君は世界が修復された後の世界からその時間へ向かったといいましたね。これは矛盾ではないですか?」
「どういうことだ?」
「判りませんか? あなたの話には因果律の破綻が見られると言ったのですよ。いいですか? 世界が修復されるためにはあなたが過去に行かなければならない。しかしそこからあなたが過去に戻るには世界が修復されていなければならない。修復が成立する条件の中に『修復が成功していること』という自身の結果を含んでいるんですよ」
 ちょっと待て。それは確かに俺もおかしいと判る。だがな、朝比奈さん(大)によるとそれが『既定事項』ということらしいぞ。
「既定事項ですか? つまりそれは因果がループした事象がいきなり存在するという恐るべき主張ですね。もしそれがあるとしたなら、その未来というやつは恐ろしくエゴイスティックで独善的な存在なのでしょう」
 何が言いたいんだ?
「それはそうでしょう? その突如現れた『未来』は過去がそこに向かわないと判るや『方向修正される前提』で修復者が過去に現れて世界を修正してしまう。そして『未来』はそれを『既定事項』と主張する。過去は未来の言いなりです。それは本当に『未来』なのでしょうかね? そんな未来が本当に存在しているくらいなら、あなたが嘘を言って自己矛盾を露呈した、という方がまだ可愛げがありますよ」
 つうか、結局信じていないだけじゃなねえのか?
「無論、信用してませんが、この矛盾点を突くだけではあなたの主張を覆すに十分ではありません。ですから判断は保留します」
 信用していないか。
 こうしてさらっと本音を言ってくれるあたり、ここの古泉はあっちのどこか信用置けない、いつも何か隠して演技しているような古泉と違うように思える。まあ背景に背負ってる物が違うから当然なんだが、この古泉は気障で理屈っぽい説明好きなただの高校生に見える。いや実際そうだったな。
 まあ古泉の態度は今はいい。だが嫌なことを聞いちまった気分だ。確かに世界の修復は“世界が修復された後に”確定している。言ってみればカツ丼を食った後、その食ったカツ丼を作ってるようなもんだ。そんなことありえねえ。
「ありえないことをしているというのなら、それには仕掛けがある筈です」
「仕掛けだ?」
「トリックですよ。一見不可能な事をしているように見える手品にも必ずタネがあります。凡人には不可能に見える完全密室殺人事件だって名探偵はトリックを見抜きその犯人を言い当てます。つまりはそういうことですよ」
 俺のやったことに何か裏があるって事か? 単純に過去に戻って世界を修復した以上になにかがあるっていうのか? それは今の状況を解く鍵になりうるのか?
「あの……」
 俺が錆付いた脳細胞を無理矢理動かそうと奮闘していると、朝比奈さんが、恐る恐る、といった感じで手を上げた。
「なんですか? 朝比奈さん」
「あの、ですね、私、その古泉さんの言うトリックについては良くわからないんですけど、その、ジョン君が12月18日に世界を修正したというのなら、今日のこの時点の私たちが存在するのは変だと思うんです」
 どういうった風の吹き回しか、朝比奈さんは俺達の話に真面目に参加するつもりらしい。手がかりを模索している俺にはありがたいことだが、俺のこと怖がってたんじゃないのか? いやまあ、それは俺のせいなわけだが。
 というか、あなたもその名前で呼ぶんですね?
「あ、ええと、つまり、その修正したという事実がもう変わってしまっているとか……上手く言えないんですけど」
「つまり……」
 長門がぼそっと声を出した。
「過去に戻って時空を修正した、という事実自体が何らかの原因によってまた上書きされている、ということ」
「長門、おまえまさか?」
 淡々と理屈を言う長門が以前の長門のように見えたのだ。
「いえ、タイムパラドックス物でありがちな設定だから……」
 いや違った。俺の知っている長門は申し訳なさそうな顔なんかしない。
 それはともかく、俺は唖然としていた。
 つまり、この長門の言葉に従うなら、蓄積したエラーでトチ狂った長門の作った世界に対する修正が『何か』によってまた無かったことになり、俺は再びここに送られてしまったってことか?
 俺の横では、ここに戻った瞬間に長門のメッセージを表示していた古いパソコンが何事も無かったように起動を終えて今は極めて普通のOS画面を表示していた。
 ……つまり修復をまたやり直せなければ世界はこのままって事か?
「そんな馬鹿な……」
「馬鹿はあんたよ!」
 なんだと。
 文芸部室の真ん中に立って手を腰に当て、偉そうな態度で聞いていたハルヒは右手を振りながら言った。
「ってことは結局、ここにいる長門さんはただの根暗女で、みくるちゃんはなかなか見所あるけど可愛くて巨乳だけの普通の人で、古泉君に至っては面白くもなんとも無いただの転校生ってことじゃない!」
 何かにつけて失礼極まりないやつだな。
「なにが言いたい? 結局、俺の言うこと疑ってるのか?」
 ハルヒは振り上げた手を長テーブルにばんと叩きつけた。ポニーテールの長い尻尾がハルヒの動作に遅れて追従し、ハルヒの肩を叩いた。
「疑ってなんかいないわ! あたしが気に入らないのは全てがあたしの知らないところで起ってるって点よ! あたしは当事者になりたいのよ。あんたが宇宙人と未来人と超能力者だっていった長門さんとみくるちゃんと古泉君はここには居ないんでしょ!」
「ああ、そうだ。言ってしまえば、ここに居るのは俺が知ってる奴らとはまったくの別人だ」
 俺の答えを聞いて、ハルヒは拳を握り締めてわなわなと振るえ、独りごちた。
「なんてことなの、面白いことが手の届きそうなところに転がってるって言うのに、いるのは偽未来人のこのバカだけだなんて」
 バカバカいうな。 なんだよその偽ってのは。
「あんたは本物の未来人か何かに送ってもらっただけでしょうが!」
 送ってもらったのか、何かの超常現象で送られたのかはまだ判らんが、俺が自発的にここに来たのではない事は確かだ。まあそりゃそうなんだが、なんで俺が怒られなきゃならん。
「もう! こんなの生殺しよ!」
 ハルヒは肩を怒らせ、後頭部で束になった髪を振り回して地団駄を踏んだ。
 ブレザーの制服で出てきたときは一瞬ちょっとは落ち着いた奴になったのかとも思ったが、やはりハルヒはハルヒだった。
 キッと振り向き、ビシッと俺を指差してハルヒは言った。
「ちょっと、ジョン! あんた考えなさいよ! あんたのいう別人の長門さんやみくるちゃんや古泉君に会う方法をっ! この三人が突然思い出して変わるんだっていいわ!」
「まあまて、俺も当然考えてる」
 むちゃくちゃを言うハルヒだが、俺もそのむちゃくちゃな状況に取り組まなきゃならないことは言うまでもないことだった。
 こりゃ前の時より分が悪い。この部屋にあった長門が仕込んだ緊急脱出プログラムはもう存在しない。一回の発動後、消滅するって事だったからな。もしかしたら長門はこの状況も予測してどこかにまたヒントを残してくれてるかもしれないが、一番重要なポイントのこの部屋はもうあらかた探し回った後だ。あと何処を探せばいい?
 この世界には宇宙人の手先たる人型端末は居ない。未来人もだ。手がかりが何も見つからなければ世界はこのままだ。
 だが、投げやりになるほど絶望的状況なのに俺はどこか楽観していた。それは多分ハルヒが怒ってはいるが何処か楽しそうで、それがSOS団で騒いでいる時の元のハルヒと変わらなく見えたせいであろう。俺はいままで色々な目に遭ってきたが、それでも何とか乗り越えてきた。だからなんとかなるだろうと、そう思ってしまったのだ。
 ハルヒは「どうなの!」と朝比奈さん、長門、古泉に何か思い出さないかを散々問い質した挙句にこんなことを言い出した。
「SOS団ですって? その馬鹿なあたしにも会ったら言ってやらないと」
「それだけは止めてくれ、世界がどうなってしまうかわからん」
 第一、このハルヒも改竄されてるだけで同じ人間の延長上にあるはずなのにどうやって会うつもりなんだ。それこそ過去に戻るか未来に飛ぶかしないと、……ああそうか、それも有りだったな。
 それは現状俺の思いつく唯一の解決法だ。未来は判らんが少なくとも世界の改変前に飛べればなんとかなる。そこには以前の長門が居るからだ。だが、同時に最大の、殆ど解決不能な難問も孕んでいる。すなわち『どうやって飛ぶか』だ。
 長門の緊急脱出プログラムのような特効薬的解決法が見つかれば話は別だが、無ければ未来人の助けも宇宙人の理解不能な能力も当てに出来ないこの状況で凡庸な人間である俺は時間跳躍なんつう非常識な芸当をみせる方法を探さなければならないのだ。
「あ、あと、ジョン、この世界を修復するのは禁止だからね」
「はぁ?」
 なにを言ってやがる。修復しなきゃ宇宙人も未来人も超能力も存在しないんだぞ。こいつ言ってることが矛盾してるのに気が付かないのか?
「あたしはあたしよ! そんな何回も変えられてたまるもんですか! いーわね!」
 ようやく落ち着いたのか、ハルヒはポニーテールを解き、乱れた髪を適当に整えながらそんなことを言った。
 まあ、変な力がないっていう点だけ考えれば賛成しないこともないが、とりあえず言うだけ言わしとけ。過去の長門や未来人の朝比奈さんにコンタクトが取れたら、もう考えることは無い。さっさと修復するつもりだ。
 だが、元の世界の出来事についてハルヒに聞かれるままにホイホイと詳細を話すべきではなかった。そう思い至ったのは、ずっと後、とんでもない状況がさらにとんでもない事態に発展してしまってからのことだった。
 そう、この涼宮ハルヒも、やはり涼宮ハルヒだったってことだ。



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