俺は校舎の薄暗い廊下を水用のポリタンクをぶら下げて歩いていた。
 ハルヒに一番下っ端と認定された俺はこういう雑用によく走らされるのだ。
 ちなみに文芸部室では今、夕食の仕込中だ。火や水を使うには文系部室は向いてない事この上ないのだが、流石に非公式の合宿で大々的に家庭科室を使うわけにはいかないから、俺が家から拝借してきた鍋とハルヒが何処からとも無く調達してきたカセットコンロを部室に持ち込んで料理をしてるって訳だ。
 言うまでも無く水はこうやって俺がポリタンクを持って汲んでくる。これで今日は二回目だ。
 これはお茶を沸かしたりする為の汲み置き用の水だった。
 残念ながら部室に水道は無く、旧館には一階のグランドに面したところに一箇所あるのだが、そちらは階段を二階分上り下りしなくてはならず満水の重いポリタンクを運ぶには不便なので、俺は渡り廊下を通って校舎の手洗い場の方に向かっていた。距離的にはあまり変りなく、こちらの方が楽なことを発見したのは俺だ。
 流石に冬休みの夕暮れ時は校舎内に人気がまったく無く、まだ窓には少しだけ明るい空が見えているものの、廊下はなにか人に在らざる者でも出てきそうなくらい不気味に静まり返っていた。UFOとか宇宙人とかそういう類のものは結構早くから信じなくなっていた俺だが、やはり暗闇からなにか出てくるんじゃないかという本能的恐怖はある。
 それに、もしかしたら泥棒や変質者が夜の校舎に忍び込んで来るかもしれないだろ?
 俺にとっては幽霊やその手の不思議系の存在よりそっちの方がよっぽど怖かった。
 早いとこ用事を済ませて戻らないとな。
 そう思いつつ、手洗い場に着いた俺はポリタンクを水道にセットして蛇口を捻った。
 静まり返っていた廊下に景気よく水の迸る音が響く。
 そして水がタンクを満たしたところで水を止めて、ポリタンクの蓋を閉め、よっ、と気合を入れてそれを持ち上げようとしたその時だった。
 背後から、
「キョン君」
「うわぁぁぁ!」


 心臓が止まった。
 いや、俺は生きているが、マジ止まったかと思った。
「……びっくりしたわ」
 暗い廊下に場違いな鈴を転がすような可愛らしい声が響いた。
「……は?」
 そこに驚いたように目を見開き、いや本当に俺の声で驚いていたようだが、胸に手を当てて佇んでいたのは、
「こんばんわ、キョン君?」
「あ、朝倉……」
 それは朝倉涼子だった。
「ごめんね、脅かしちゃうって判ってたんだけど、なかなかタイミングがつかめなくて」
 そんなことを言いながら悪戯っぽく舌を出す朝倉の顔は可愛かったが、薄暗い廊下に黒髪が紛れて白い顔だけが浮き上がり、ちょっとお化け屋敷っぽくて不気味でもあった。
 まあ、そんなことより俺は気になることを朝倉に尋ねた。
「謝ってくれるのはいいんだが、なんでおまえがここに居るんだ?」
 冬休みだし、この時間に学校で女子高生が一人何をしているのか。
「うん、ちょっとね」
 朝倉はそう言って目を虚空に彷徨わせた。
「あ、まさか、無断宿泊の証拠を掴みに張り込んでいたのか?」
 昨日は物資運び込みにクレームをつけに来ていたからな。
「もう、それはいいわ。言ったって隠れて泊まっちゃうでしょ? 判ってたんだから」
 そう言って微笑みつつも朝倉は眉をハの字にした。
「なんだ知ってたのか?」
「なんかそうやって開き直られるのも悔しいわね。判るわよ。鍋釜まで用意して」
 なるほど、バレバレだったわけだ。
「じゃあなんだ?」
 こいつの意図がさっぱり判らなかった。まさかこうして雑談するために現れたわけでもあるまい。
「ちょっと付き合ってくれる?」
「悪いが俺は重要な仕事の途中だ。俺が帰らないと団員たちが夕食にありつけなくなってしまうんだ」
 一応、疑いはある程度晴れたのだが、どうも朝倉とはあまり仲良くしたい気がしないのが本音だ。
 朝倉は俺の連れない返事に堪えた様子も無く言った。
「時間はかからないわよ。こちらでは一瞬で済むから」
「はぁ?」
 なんかおかしな言い方だな?
「ここでも良いけど」
 朝倉はそう言って辺りを見回し、すぐ近くの教室のドアに目を止めた。
「そうね、そこの教室を借りましょう」
 そう言って朝倉はドアを開け、教室に入っていった。
「おい?」
「早く来て」
 ドアの向こうから声が聞こえた。
 仕方なく、水汲みのポリタンクはそこに置いたまま俺も朝倉が入った教室に足を踏み入れた。
 その瞬間。
 眩暈のような感覚と共に、目の前が急に明るくなった。
 朝倉が明かりを点けたのだろうか。
 そう思ったが、違った。
 教室に足を一歩踏み入れたまま前を見ると、朝倉は黒板の前に立ってこちらを向いていた。
 表情はあいつのいつもの微笑み。
 背後の窓にはまだ明るい空。

 デジャ・ビュ。

 俺はこの光景を見たことがある。
 さっきは暗くて意識できなかったが朝倉は制服姿だった。
 プリーツスカートから伸びた白い足と白いソックスがいやに目に付く。
 窓の外はまだ明るく教室に西日が差し込んでいる。
 外が明るい?
 おかしい。
 陽はもう沈んで空も暗くなりかけていた筈だ。
 なのに、何故外からオレンジ色の光が差し込んでいるんだ?
「ここなら落ち着いて話せると思って」
 朝倉はまっすぐな長い黒髪を揺らして教壇を降り、教室の中程まで進んだ。
「来て」
 俺を誘うように手を振り、席の一つの椅子を引いてそこに座った。
 まさか?
 俺は振り返って後ろを見た。
 背後は薄暗い廊下だった。明らかに空の色が違う。
 それは、夕暮れ時の西の空と東の空の違いどころの差じゃねえ。
「どうしたの? お話しましょ?」
 朝倉は普段あいつが取り巻きの女生徒達に見せているような笑顔で首を少し傾げて見せた。
「その前に、おまえに聞きたいことがある」
 俺はその場に立ったまま朝倉に向き直った。
「うん、そのことも含めてなんだけどな。入って。そうしないと空間を完全に分離できないから」
 なんだって?
「今なんて言ったんだ?」
「もう、時間が経つと涼宮さんに叱られちゃうんでしょ? 早く入って」
「し、しかしだな」
「しょうがないなぁ。………」
 朝倉の口が素早く動き何かを唱えたように見えた。
 その次の瞬間、俺は朝倉のすぐ前に立っていた。
「うわっ!」
「うふっ、座って?」
 そう言って朝倉は微笑みながら目を細めた。