俺は仕方なく注意深く前の席の椅子を引いて座れるように後ろ向きにした。だが座る前に朝倉に訊いた。 「今、何をした?」 「そんなに警戒しないで。空間の座標情報をちょっといじっただけよ」 「……」 俺はゆっくりと朝倉から目を離さないように椅子に腰を下ろした。 姿勢よく座る朝倉は俺が椅子に落ち着くのを見てから猫のように細めていた瞼を見開いて俺を見つめ、机の上でその白い両手の指を絡め、身を乗り出し気味に話を切り出した。 「状態が遷移したから話さないわけにはいかなくなったのよ」 「何の話だ?」 「結論から先に言うわね。あなたの知っている言葉でいうところの、ええと対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース? 長いわね。『対人類用人型端末』でいいわ。それがわたしなの」 嘘つけ。 と、突っ込みたかった。 しかし、こいつは、今さっき長門ばりの呪文読誦で俺を瞬間移動させたのだ。 OK、俺は既に高レベルの物分りスキルを身につけてるからな。 だから、あえて言わせてもらおう。 「よくも俺を謀ってくれたな」 それを聞いた朝倉は目を瞬かせて、いかにも心外だという顔をした。 「謀ったなんて」 「なにが変に思われるのは我慢ならないだ! 散々恍けくさって今更だぞ!」 「話したくても話せなかったのよ。でもキョン君にあんな風に思われるのは本当に嫌だったのよ? そこに座ってくれたって事は信じてくれてるのよね?」 そう言うと朝倉はにっこりと嬉しそうに目を細めた。だが。 「……」 俺は無言で立ち上がり、生徒机一つ挟んだ先の席に移動した。 そんな俺を見て朝倉は今度は目を2、3回目を瞬かせた後、言った。 「同じだと思うけど?」 「ぬかせ! 俺を2回も殺そうとしたくせに」 確かに、朝倉に非常識な能力があるならこんな距離は気休めにもならないだろう。 半ばヤケクソなのだ。 この世界では長門の助けは無い。 朝倉はこの空間を分離するといった。 おそらく俺にはもう逃げ場が無い。 朝倉がその手に刃物を持っていないのが唯一の救いだ。 「あ、待って、それ、わたしじゃないのよ」 そう言って朝倉は組んでいた手を解き、否定を表すように俺に向けて小さく振った。 「ああ?」 「この世界はあなたの記憶にある世界と厳密な意味で繋がっていないのよ。いえ派生していると言う意味では繋がっていると言えるんだけど、動的な情報の交換が行えないと言う意味で断絶しているの」 「……」 「なんて言ったらいいのかな、この世界の情報統合思念体はあなたの知っている世界の情報統合思念体とは違うの。いいえ、違うって言葉は正しくないわね。『位相が違う』が適切かなぁ? そう、位相がズレてるのよ。どういうことかというと存在は認識できる。つまり概念的? に認識は出来ても具体的な情報を交換したり意思を疎通させることは出来ないの。有機生命体のもつ制約された情報を交換できる可能性はあるのだけどこの世界にあちらの端末は存在していないわ」 「だから、わたしもあなたの知っている朝倉涼子の事はあなたの話からしか知らない。それを構成していた情報は私とはリンクしていないの。相似体ではあるけど同位体ではありえないのよ。その意思はわたしには引き継がれていないわ」 「もっというと、この世界の情報統合思念体は確かに涼宮ハルヒに興味を抱いているけど、あなたの言う『元の世界』の情報統合思念体とは明らかに考え方? が違うの。情報統合思念体はあなたの言う元の世界というものを」 「まて! 待ってくれ」 「なあに?」 「俺にはさっぱりわからん」 長門と違って表情豊かで、言葉も一見判りやすそうな言葉を選んで語ってくれているみたいなんだが、内容に関しちゃ長門の話とどっこいだった。 「わたしがあなたの知っている『元の世界』の有希と同じような存在だって信じてくれればそれでいいわ」 「ああ、それはOKだ」 それだったらさっきの瞬間移動だけでも十分だ。 この朝倉には俺の昔話なんて聞かせた事もないのにそれを知ってったってことにも今更驚かねえ。 「それから前の朝倉とは違うから俺を殺すことはないって言ってるように聞こえたが」 「そうよ」 「だったらもう少し判るように俺に教えてくれ。この世界はなんなんだ? あのときエラーを発生させた長門が改変して出来た世界じゃないのか?」 「最後の質問には答えられるわ。それは違う。なぜならこの世界には情報統合思念体が存在するから。でもこの世界が何なのかという質問には正確に答えられない。情報統合思念体はあなたの知っている元の世界の有希がしたことも含めてこの世界は色々な要因が複雑に重なり合って成立しているという予想を立てているわ。でもあなたの体験してきた事を情報統合思念体が直接捉える事が出来ない以上これは予測に過ぎないの。得られる情報が少なすぎるわ」 「予想でもいい。要因とか言ってたな? やっぱり長門以外に世界をいじくった奴が居るってことなのか? 俺をここに送ったのもそいつなのか?」 「誰が何かをした、なんていう具体的事象は判らないわ。掴んでいるのは現状だけなのよ。でも情報統合思念体はその中心となったのはあなたと涼宮さんだと考えてるわ」 「俺とハルヒが?」 「世界は12月20日に断絶している。でもその時の現象は24日から始まった涼宮ハルヒからの情報フレアとは違う。情報統合思念体でも捕らえれれていない未知のなにかよ」 「24日ってのはハルヒに力が覚醒した日だな?」 「そうね」 「あと20日に断絶って? 18日じゃないのか?」 「それはあなたの言う有希が世界を変えた日ね?」 「ああ、そうだ」 「情報統合思念体が位相の多重化を認識したのが20日。それまではそんなものは存在していなかった。何らかの未知の現象がこの変化をもたらしたとしか考えられないの。この位相のズレというのは高位の位相空間でのことだからこの現象時空では全てがそこから始まったと考える事も出来るわ。言い方を変えればこの時空が創られたのがその日。それ以前の過去は情報としてしか存在していないとみなす事が出来る……」 「判からねぇよ。じゃあ今日は世界創造からまだ7日目とでも言うのか?」 「そう考える事も出来るわね。ただし、それは情報の展開の仕方だから私たちからすれば大した問題ではないわ。むしろ問題はあなたの存在よ」 「俺か?」 「そう。あなたは前の世界の更に未来から来たって言ってるわ」 「その通りだ」 「だからあなたが最大の特異点なのよ。あなたが嘘や妄想を語った形跡は認められない。でも位相の異なる宇宙間で同一性を保ったまま有機生命体の移動が行われているなんて本来ありえない。幾つかの可能性が考えられているけれどそれは仮説でしかないわ。情報統合思念体は最初あなただけに興味を抱いていたのよ」 「俺にだけ?」 「そう。仮説の一つにあなたがこの宇宙を創造した、つまり情報統合思念体にまで及ぶ異常な位相のズレを生じさせた、というのがあるの。それなら説明がつくから。だから情報統合思念体はわたしをあなたに接触させた。でもどう調べてもあなたは普通の人だったわ」 「当たり前だ。俺にそんな大仰なことできるもんか」 「涼宮ハルヒの情報フレアが観測され、情報の噴出が始まったのは12月24日の深夜から。その時初めて情報統合思念体は涼宮ハルヒの可能性に気づいた。位相を変化させた未知の現象。それを引き起こしたのは彼女ではないかって」 「………」 わからねえ。 話がデンパな方向にぶっ飛んで俺も何を聞いてたんだか判らなくなってきたが、どうやら宇宙が大変なことになっているらしい。 そして、それをやったのが、またもやあのハルヒだってことだ。 だが、まだだ。 肝心のことが判っていない。 「まず聞こう。なんでそれを俺に話す? 俺も観察対象じゃないのか? おまえの場合、観察対象にネタをバラすのは在りなのか?」 「状態が遷移したからって言ったわ。概念でしか知りえなかった情報フレア、情報統合思念体の自立進化の可能性が涼宮ハルヒに観測されたからよ。あなたは中心に居るだけで何も能力は持たないから接触してもなんの問題も起こらない。能動的変化を起こす可能性のあるのは涼宮ハルヒ。だから今後の彼女の動向を見守るためにもあなたの協力は必要。事情を話して協力を仰いだ方が良いという見解が情報統合思念体の大方を占めてるわ」 「協力ってなんだよ? 俺に何をさせる気だ?」 「情報統合思念体はあなたが涼宮ハルヒを遷移させた触媒であると見ている。だから彼女と一緒に居るだけでいいの」 「それだけか?」 「そう。ただ、わたしがあなたに干渉するかもしれないけど」 「なんだよそれは? 怪我したり殺されたりするのはご免だぞ」 「それは無いわ。情報統合思念体の大部分は涼宮ハルヒに否定的な感情を生じさせるような干渉はすべきでないと考えてるから。一部の積極的に干渉すべきだという一派も過激な干渉は位相のズレのような不測の事体を招く可能性があるとして慎重になっているし」 判った。とりあえず協力して死んでくれって事じゃないんなら応じようじゃないか。 「もう一つだ。おまえは俺を12月18日以前に送ることは出来ないのか?」 これが一番重要なことだ。 「それは二重の意味で出来ないわ。一つはこの時空間連鎖体上には20日以前の時間平面は具象化可能な状態で存在していない。だからあなたが『送る』と言っている意味での時間移動は不可能なの。もう一つは、おそらくあなたが『行きたい』というのは、あなたが『元の世界』といっている現象時空間での18日以前でしょうけど、この時空は、それとは連続していないの。位相の異なる時空間同士で連続性を保ったまま有機生命体またはそのレベルの意識を直接移動させることは実質不可能なのよ。だから無理」 「………」 理屈がさっぱり判らん。 だが、結論として朝倉には出来ないんだな? 「じゃあ、次だ。さっきから話を聞いてると、元の世界があって、この世界がそれとは別に生じたような印象を受けるんだが、この世界と元の世界は別々にあるのか? もしかして元の世界もどこかに存在しているのか? その世界に行くことは出来ないのか?」 「それも同じ答になるわ。結論だけ言うとそれは出来ない。それから過去ではなくて現在の『元の世界』が存在するのかという質問だけど、確かにそれは存在可能なんだけど、在るか無いかという命題には答えられない。表現不能よ」 「よくわからんがもういい。出来ないんだよな?」 「ええ、あなたがしたいと思っていることは、あなたがここに存在していること以上に難しい事柄なのよ。可能性が無いわけではないわ。ただその可能性がどういうものかをわたしはあなたに判る言葉で説明できない」 「そうか……」 長門と違って沈黙ではなく『説明できない』と明言してくれる点は親切だが、結論として、朝倉に頼っても無理って事か。 くそっ、期待させといて結局どうにもならないとはな。 判ったことは、俺がこの朝倉に刺されることはなさそうだってことと、来年の野球大会には勝てそうだってことくらいか。 そうだ。 「なあ朝倉?」 「なあに?」 「この話、ハルヒにしても良いか?」 「わたしはかまわないわ。それで彼女がどんな動きを見せるか興味があるし」 ああ、じゃあ止めておこう。これ以上ややこしい事態は御免こうむる。 話が終わってしばらく、朝倉の作った黄昏の教室でボケーっとして、使い慣れないのに使いまくってしまった頭をクールダウンした。まあ朝倉の言った言葉の九割は理解できなかったんだが。 朝倉によるとこの教室と外で時間の流れに一万倍の差があって、ここで経過した一万分の一しか外では経過してないのだそうだ。だからといって調子こいて長居をするとそれだけ俺は外に居たやつより歳食ってしまう訳だが。 暫くして通常の思考が帰ってきた気がしたので俺は朝倉に言った。 「俺はもう戻るが朝倉はどうする?」 「こっそり帰るわ。今わたしは顔出さないほうがよさそう」 「そうだな」 俺は朝倉に別れを告げ、黄昏色に染まる教室を後にドアから廊下に出た。 視界が急に暗くなる。 が、まだ日没前後の薄暗い程度であれから殆ど時間が経過していないことが判る。 振り返るとそこはさっきのオレンジ色の風景が見える教室はなく、窓の外はまだ少し明るいが室内は真っ暗だった。 俺は流し場に置いたポリタンクを持ち上げて、まもなく真っ暗になるであろう廊下をハルヒ達の待つ部室棟へ向かって歩き出した。 少し歩いたところで前方にぼんやりと白い影が浮かび上がった。 「なんだ?」 「あっ」 その影は俺の姿を見つけて声をあげた。その声で誰だか判った。 「脅かすなよ。どうしたんだ?」 「あの……」 廊下を歩いてきたのは長門だった。 トイレか? いやそれなら旧館にもある。 まさかと思うが。 「俺を迎えに来たのか?」 長門は頷いた。 そうなのか。いったいどうして? 「わからない」 「いや、ありがとな」 そう言って空いた方の手で長門の頭を撫でた。 そういや、前に一度この長門の頭を撫でようとした事があった。あの時は長門の反応がアレ過ぎて思わず手を止めてしまったが、今は上手い具合に暗闇に紛れて顔色が判らないので自然に撫でる事が出来た。 何で迎えに来たのかよく判らんのだが、まあ折角きてくれたのだから有り難く一緒に部室に戻ることにする。なにが有り難いんだかわからんが。 ……まさか長門は朝倉の気配に気付いて見に来たとか? いや、それはありえないだろう。 |