第4章


 12月27日
 翌朝、俺は文字通り叩き起こされた。
 目覚め間近のまどろみも、何もかもを吹き飛ばす有無を言わさぬ衝撃が俺を襲い、同時に頭上から喧しい声が降って来た。
「何時まで寝てるのよ! 団長がもう起きてるっていうのに下っ端の自覚が足りないわよ!」
 声の主は言うまでも無い、ハルヒだ。
 目を開けるとたった今どっちかが俺を蹴ったと思われる光陽園のジャージを纏った一組の脚と振り乱された黒い毛先が視界に入った。
 ハルヒの髪が長いってことは、ここはまだあの世界だ。
 目が醒めたら夢だった、なんて事はここへ来てから毎朝考えるんだが、世の中そう甘く出来ていないらしい。寝起きのボケた頭でそんな思考をしつつ、俺は目線を動かしてハルヒの顔まで持っていった。なにやら無意味に偉そうに腰に手を当て、仁王立ちして俺を睨んでやがる。つうか、蹴ること無いだろ? まだ下っ端扱いかよ。
「なによ? なんか文句ある?」
「いいや、べつに」
 夜中に起きだしたせいか、まだ気だるさが残る。寝慣れない寝袋ということもあって、身体のあちこちにも違和感があるが、とりあえず寝袋のジッパーを開けてのそりと身を起した。
「なによ、シャッキっとしないわね。早いとこ顔洗って来なさい!」
 上体を曲げて俺に顔を近づけビシッとドアを指差すハルヒは、声も表情も朝から絶好調だ。
「へいへい」
 時間を確認すると八時半。残りのメンバーは全員起きているようで、隣で寝ていた筈の古泉はもう既に寝袋も無く、寝る前に本棚と窓側の壁に渡されていた男女を仕切るカーテンも既に外されていた。皆さん寝起きがよろしいようで。
 俺は洗面具一式を持って手洗い場へ向かった。
「あ、ジョン君おはようございます」
「おはようございます」
 廊下の途中で2学年のカラーのジャージを着た朝比奈さんが、春先のタンポポみたいな笑顔で微笑んで俺とすれ違う。
 こうして朝早くその笑顔に会えると一緒に泊まっているんだなあっていう実感が沸くな。スラム街で行き止まりに突き当たったみたいに荒んでいた心が癒される。
 朝比奈さんと続いて長門ともすれ違った。
「よう、おはよう」
「おはよう」
 何時も静かだから、眠そうなのかそうでないのかよく判らんが、今朝の長門は髪に寝癖が一房飛び出していた。なんだかこういう長門は新鮮だ。
 そして、手洗い場に着くと、無駄に爽やかなニヤケ顔が俺を出迎えた。
「やあ、おはようございます」
「おう」
 別にこいつの薄笑いは見なくても良かったがな。
 古泉は流しのところで髪を整えていた。
 俺はその横に立って水道の蛇口を捻り、冷水で思い切り顔を洗った。
 手と顔面の刺激が俺の脳細胞を覚醒させ、気だるさの残滓を拭い去った。
「ふぅ……」
 そして、朝っぱらの学校の廊下に鳴り響く水の音を止めながら、俺は昨日起こった驚愕と落胆の出来事を思い出した。
 そう。昨日は古泉に始まって、朝倉、そして朝比奈さんから重要な話を聞いた。
 最初普通に見えた世界が何の因果か、またトンデモな連中が蠢く怪しい世界に変わっちまったんだった。だが、俺は元の世界に戻りたいのであって、この世界に前衛的革新を推進して欲しいなんて願った覚えはねえ。
 俺が顔を拭き終え、さて戻るかと考えたところで古泉は徐に口を開いた。
「なんだか、元気ありませんね」
 その主語のない、俺に反問を要求しているような言い方はなんだ?
 古泉は半端な笑い顔でこちらを振り返らずに俺の答えを待っていた。仕方が無いので俺は言った。
「あん? 誰が元気ないって?」
「あなたですよ」
「そう見えるか?」
「ええ。見えますね」
「そうか。そうだろうな」
 予期せず、世界はアバンギャルドな躍進を遂げたと言うのに俺は未だにこの世界から抜け出す手段を見出せずにいるのだ。
「理由は予想がつきますが、あえて聞かないことにします。僕にはどうにも出来ないことでしょうから」
 その訳知り顔の薄笑いがむかつくんだが、それにわざわざ噛み付くのは労力が勿体無い。
 しかし、こいつ何処まで判っているんだ?
 まあ、それも俺にとってはどうでもいいことだが。
「ただ、あなたに元気がないと涼宮さんが不安定になりそうでそれが心配です」
「放っといてくれ。今はおまえと話をする気分じゃないんだ」
 そう言い捨てて俺は流し場を後にした。
 俺の気分や態度がそれ程ハルヒに影響するのかは、はなはだ疑問だが、それをここで古泉と討論する気にはなれなかった。
 宇宙人、未来人に超能力者。
 若干違うがカードが揃っちまったっていうのに、元の世界に戻る手段は無いときた。
 多分そう望んだのはハルヒだ。あいつに力が発現したと同時に古泉には超能力が目覚め、朝比奈さんは未来からスカウトされ、朝倉はカミングアウトした。
 あいつは世界を元に戻すのは禁止だって言ってたしな。
 全てがハルヒの思い通りだ。
 ここは何処を探しても超常現象なんぞ見つかりはしない普通の世界じゃなかったのか?
 しっかりしろよな世界。ハルヒなんかに唆されて浮き足立ってるんじゃねえ。
「ちょっとジョン?」
「あ?」
 文芸部室のドアを開けるとハルヒが待ち構えていた。
 ハルヒはなんか知らんが俺が部屋に入りドアを閉めても、まだ俺の顔から視線を逸らさず黙って見つめている。俺の顔に何かついてるか?
 その向こうに椅子に座った長門と、その横で片手にブラシを持ち、もう一方の手で長門の頭にタオルを当てている朝比奈さんの姿が目に入った。多分、長門の寝癖に気付いて直してあげているのだろう。なにやら姉妹みたいで微笑ましい。
 が、そのせっかくの眼福を俺は素直に楽しむことが出来なかった。何故なら、その手前で相変わらず微妙な表情を醸して俺を睨み続けるハルヒがいたからだ。
 こいつ、別に怒っている訳じゃ無さそうなんだが、こういう時のハルヒは何を考えているんだが判らん。こいつがハルヒである以上、ロクなことじゃないと思うがな。
 ていうか、まてよ?
 昨日の急展開が本当にこいつの仕業だとしたら、こいつが世界の修復を望まない限り俺はもう元の世界には戻れないってことなのか?
 冗談じゃないぞ。
 それってのは、つまり俺に「元の世界に戻してくれ」とこいつにお願いしろってことじゃねえか。
 そんなことしたくない以前に、こいつがそんなことを承諾する訳がねえ。いや、それ以前に、話したところで、こいつが自覚的に力を使えるかどうかも怪しいものだ。
 朝倉が言ってたじゃねえか、『可能性を説明できない』ってさ。
 俺もその言葉を使いたいと思う。
 このハルヒに力のことを話して俺が元の世界に戻れる可能性が如何程の物なのか、俺は表現する言葉を持たない。ってな。
 第一、今そんな訳の判らない確率に賭ける気にはなれねえ。
 そんなことを考えて俺が気を滅入らせている間もハルヒは何を考えてるのか判らん表情で俺の方に目線を向けていたんだが……。
「野球をするわよ!」
「はぁ?」
「メンバーを集めなさい! あと4人!」
「なんだよいきなり」
 俺の顔を見てて何故そういう結論になるんだ?
 だったら、差し詰め後頭部を見つめたらゲートボールでもしたくなる事だろうよ。
 ハルヒは俺の世界の珍獣を見るような視線を無視して話を続けた。
「校庭に野球部いたわよね、あいつらと野球場の使用権を賭けて勝負よ!」
「まて、野球場を勝ち取ってどうするんだ?」
 ちなみに野球場といっても広いグランドの一角にバックネットとピッチャーマウンドが設えてあるだけでグランド自体は野球専用という訳ではない。
「超SOS団の名前を世界に轟かせる第一歩よ!」
「野球部がか?」
「いい? ジョン。千里の道も一歩からって言うのよ。身近な努力を忘れたら大きなことも達成できないの!」
「そりゃ正論だが、おまえの『身近な努力』ってのは野球部に喧嘩を売ることなのか?」
「野球部に勝てば超SOS団は世間に注目されるじゃない」
「言っとくがうちの野球部はそんなに有名じゃないぞ」
 少なくとも俺は近年、北高と野球部が結びついた噂を聞いたことが無いが。
「それはそれで力試しだと思えば良いわ。少なくとも北高には名前が轟くし」
 それはまたハルヒにしては控えめな目標だな。というか勝つことは決定事項かよ。
 まあ、ろくにやる事も決めずに始めた合宿でコレだからハルヒらしいといえば言えないことも無いんだが。
 元の世界で培われた俺の習性で、突っ込みはしたが、俺は特に止めるつもりは無かった。
 野球大会は元の世界で既に経験済みだし、今回はトーナメントする訳でもないから勝っても負けても労力は一緒だ。
 それに自分の通う高校の野球部相手なら、大学の本格野球チームを相手にするのと比べてプレッシャーは格段に少ないと言える。
 一応、元の世界の長門の代わりに朝倉という秘密兵器もいるし。そうか朝倉を呼ばないといけないな。あいつのことだから断りはしないだろう。
「みくるちゃん、あの子呼んで。パーティーの時のお友達」
「あ、は、はい」
 早速ハルヒはメンバー集めを始めた。
「あたしは涼子ちゃんに連絡してみるから。あんたも心当たりをあたりなさい!」
「お、おう」
 朝倉は俺が呼ぶまでも無かった。というか人外を集めるのはハルヒの担当だったことを思い出した。
 俺は、このあとすぐ谷口と国木田に電話をした。